<ネゲブの流れ> ―456― 2017/5/28
『多く赦された者』ルカ7:36~50
「この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛し
たからです。」 ―ルカ7:47-
私が教会に初めて行ったのは、40年前の高3の時、故郷佐渡においてでした。バークレーが「欠乏の意識は神の赦しに至る門を開く」と言っていますが、当時の私は欠乏の意識ばかりでした。どうやって生きたらいいのかわからない、神がいるなら教えてほしいとの切羽詰まった渇きを持っていました。ですから毎週の日曜礼拝はもちろん平日も牧師宅を訪ねて救いを求めました。そういう意味で私はこの箇所の「罪深い女」に似ていました。登場人物から救いの素晴らしさを学びましょう。
①罪深い女―❶イエス様への接し方。泣きながら、御足を涙でぬらし髪の毛でぬぐい口づけし香油を塗りました。全身全霊の感謝感激の礼拝でした。❷罪。パリサイ人シモンの言葉から、罪深いということで知られていたらしく、相当の罪があったことでしょう。❸信仰。罪の赦しと解放を求める思いは真実な切なるもので、イエス様にもその信仰をほめられました。そしてイエス様に救いと安心を宣言されました。
②パリサイ人シモン。―❶接し方。イエス様を招待したのは、有名人への興味からでした。ですから礼儀を欠き、足を洗う水も用意せず口づけして歓迎することもしませんでした。❷罪と信仰。パリサイ人として外側は品行方正でも、内側には罪が満ちていました。罪深い女を軽蔑しイエス様を批判する高慢と自己正当化です。この高慢と自己正当化こそが罪の根源であり、人と神を隔て、信仰を形骸化させるものでした。
③イエス様。―噂でも、実際の姿でも人を変える力を持っており、罪深い女を悔い改めに導きました。さらに「…多くの罪は赦されています。」「…安心して行きなさい。」との御言葉はその救いを完成したことでしょう。救い=罪の赦しとは全人格的癒しですから、この女が知情意の全面において愛と感謝、賛美に満ちた人物に変えられたことは、私達の希望、目標です。さらにイエス様の側近くに!人の目など気にせずに!