‹ネゲブの流れ›-613-2020/8/2
「すべては築き上げるため」Ⅱコリント12:19~21
「愛する人たち。すべては、あなたがたを築き上げるためなのです。」
―Ⅱコリント12:19―
短気な父が、家にゲーテの「処世のおきて」を張っていました。「気もちよい生活を作ろうと思ったら、済んだことをくよくよせぬこと、めったに腹を立てぬこと、いつも現在を楽しむこと、とりわけ、人を憎まぬこと、未来を神にまかせること」。この中で「人を憎まぬこと」が私にとって課題だと感じました。パウロはコリントの教会の信徒から批判、侮辱を受けて嫌な思いをしながらも、憎むどころかかえって「愛する人たち」と語りかけています。すべてのことを人を築き上げるためにできたパウロの愛を学びます。
➀厳しい処置を回避しようとするパウロ。― 「復讐はわたしのすることである。」(ローマ12:19)とありますが、人間は復讐心をなかなか捨てられません。パウロも、悔い改めないで侮蔑してくるコリントの信徒達を除名処分にしたら、どんなにかすっきりしたのではないかと思いますが、そうはしません。厳しい処置をしなくてもいいようにと、コリントに行く前に手紙を書いて、悔い改めを促しているのです。愛の堪忍です。
➁パウロの言葉の柔らかさ、優しさ。― キリスト教会としてふさわしくない罪を列挙しながら、パウロの言葉は柔らかく穏やかで、叱責や怒りや厳しさは感じられません。私なら、叱って悔い改めを迫りそうな所ですが、パウロは違います。「愛する人たち」「築き上げるため」という愛の表れた言葉とともに、「…ないでしょうか。」という良くない想定事項を挙げて、それを避けたいのだと勧めています。愛の説得力でしょうか。
➂パウロが負った心の重荷。― 神と罪人の間に立つとりなし手には、罪を悲しむ愛が必要だと言われます。例えばダニエルは民の罪を自分の罪として悲しみ神に赦しを乞いました。パウロも同様で、罪を悔い改めない人を見ることもそれを叱責することも、彼にとっては恐れであり嘆きでした。私達も人の罪を見るとガッカリして心が重くなります。その時嘆きを心に負ってとりなし続けられたなら!何かが築かれて行く…。