‹ネゲブの流れ›-705-2022/6/26
「白い御座を意識して」 黙示録20:11~12
「また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御座から逃げ去って、あとかたもなくなった。」 ―黙示録20:11ー
私がキリスト教に入信した1970~80年代には伝道説教に定評がある牧師が沢山いて、伝道的集会が楽しみでした。そこでよく聞いたのが、死後の審判では生涯の全行動を映した映像が流される、それに耐えられるか、キリストの赦しが必要ではないか?という話でした。審判があったら困るとの恐れもあって私は入信しましたが、この箇所はその審判を預言しています。政治家や牧師が平気で嘘をつく時世です。最後の審判は大きな白い御座においてなされます。意識して良き人生を。
➀大きな白い御座と着座された方。― 人見知りする私は偉い人や有名人に近づくのを嫌います。違いを意識し異様に緊張するからです。しかし死後の審判では、正しさ、聖さ、力、愛全てにおいて偉大な神なるキリストの御座の前に立つことになります。白は聖さ正しさの象徴です。赦されただけではなく聖く正しく整えられ、堂々と立ちたいものです。
➁地も天もなくなる。― 「この天地は滅び去ります。」(マタイ24:35)とありますが、再臨、千年王国、悪魔滅亡の後、最後の審判の前に天地が滅びるようです。逃げ去ってあとかたもなくなる。Ⅱペテロ3:10では「焼けてくずれ去り」「焼き尽くされます」とあるので、爆発によって滅ぶのでしょうか。地も天もあとかたもなくなり白い御座だけがある所に、死後復活して立つのです。隠れる場も隠す物もない。聖徒の審判は先になされたとしても、大きい者も小さい者も全ての人間が立つのです。
➂いのちの書と行ないの書。― 審判では幾つかの書物が開かれます。一つはいのちの書で地獄行きを免れる人の名が記され、他の数々の書物には全人間の行ないが記されています。いのちの書に名がなく地獄に行くにしても罰の重さは生前の行ないで決まります。いのちの書に名があっても行ないの書によるさばきは無視できません。パウロも「行為に応じて報いを受ける」(Ⅱコリ5:10)と言っています。赦されたから善行は不要と考える無律法主義は間違いです。十字架の血は良心を聖めます。良心に恥じない生き方を!白い御座の前を意識して!
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