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‹ネゲブの流れ>-723-2022/11/20

「天国行きの備え」黙示録22:13~15


「自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである。」  ー黙示録22:14―

 天国に召された人物の中でステパノの死が最も印象的で理想的です。彼は迫害され石を投げつけられる中で「この罪を彼らに負わせないでください。」(使徒7:60)と叫んで眠りにつきました。この時彼には天の神とキリストが見えていました。天国の門は身を低くしないと通れないと言われます。門と言えば、門の下に立ちすくむしかなかった、小説「門」の宗助のようにならないために、十分な備えをしたいものです。 

 ➀天国の門の中には?いのちの木。― 神はギリシャ語のアルファベットの最初の文字α(アルファ)であり、最後の文字ω(オメガ)である、つまり最初であり最後である、初めであり終わりである方です。永遠に存在する、万物の創造者かつ支配者です。その神が創造の最初にエデンの園に「いのちの木」を生えさせました。この実を食べると永遠に生きます(創世記3:22)。天国にもこのいのちの木があって、いのちの書に名が記された者はこの木の実を食べる権利が与えられています。

 ➁天国の門の外には?罪人たち。― 小説「門」の表現「彼は門を通る人ではなかった。また門を通らないですむ人でもなかった。」は救いを求めながら得られなかった人の姿です。天国の門の外には、犬ども(=不義不潔の徒)、魔術を行なう者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行なう者が出されています。決して門外者にならぬよう!

 ➂門を通れる条件は魂の洗濯。― 正式な式典や豪華な祝いの場に出るには、浴場で体をきれいにし服も清潔で場に合った物を着ます。同様に神のおられる天国に行くには、魂=心の聖めが必要です。高慢も貪欲も洗われて愛と謙遜に変えられていなくては。Ⅰコリント13:4~の愛に自分の名が入る程に。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてをがまんし、…。」 ステパノは自分を殺す者に怒らずその悪を思いませんでした。心の洗濯をする日々を!





 

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