<ネゲブの流れ>-869-2025/9/7
- Kotomi Kani
- 9月6日
- 読了時間: 2分
「へりくだって」ピリピ2:1~4
「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」 ーピリピ2:3ー
最近、伊藤博文を暗殺した韓国の安重根(カトリック教徒)を調べています。私は調べながら日本の植民地政策に怒りを覚えましたが、安は死刑までの5ヶ月間を怒りではなく、東洋の平和を願う祈りと敵国日本の将来を憂う愛で過ごし、多くの日本人関係者の心を引きました。牧師に排除され孤立中の私ですが、パウロが願う教会内での一致が持てるのでしょうか?パウロの言う「へりくだり」が鍵でしょうか?学びます。
➀キリストからの個人的恵み。-パウロに物質的支援をし熱心な宣教活動もし、パウロから褒められていたピリピ教会にも問題がありました。教会内の不一致です。パウロは教会の一致を求めるにあたり、まず信徒の個人的恵みを確認します。あなたがたそれぞれにはキリストの励まし、愛の慰め、御霊の交わり、愛情とあわれみが与えられていると。これは個人的信仰生活の基本で十字架の縦棒です。個人的には恵まれても教会に集まるとざわつく。そんな経験がないでしょうか?
➁教会の一致という恵み。― 十字架の縦棒(=個人的信仰の充実)が教会の一致につながり横棒も充実する必要があります。それはパウロの喜びでした。「一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。」と。どんな集まりでも心が一つになり同じ方向を向いているのは麗しいものです。教会なら当然でしょう。今年の8月15日に見た韓国の一致した喜びと日本の歴史観の不一致。国の未来に差が出る予感がしました。私もキリスト教会内に戻り一致の中に入りたい。
➂一致にはへりくだりが必須。-上なる神を仰ぐまっすぐな信仰が、横の隣人を排除したり顧みなかったり威張ったりしてはなりません。まっすぐな信仰は自分を地面近くに置き、隣人を自分の上に置いて神に向けるのです。これが「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思う」ことです。死刑判決を堂々と受け入れた安重根から怒りや恨みが消え、他への配慮と祈りだけとなったこと。謙卑のキリストの姿に似ています。私も倣いたい(祈)

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