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‹ネゲブの流れ›-610-2020/7/5

「キリストのための弱さ」Ⅱコリント12:1~10

「ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」

―Ⅱコリント12:10―

ある政治家が、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という言葉をあげて、偉いが謙遜な先輩政治家の話をしていました。どちらも未信者ですが、考えさせられました。クリスチャンは神に頼るということで、自分を実らせるという点が欠けているようです。弱くても神の力が現われると曲解して、弱さに堕しているのです。神様の力が完全に現れるという「弱さ」はもっと敬虔な謙遜な「弱さ」なのです。パウロの言葉に学びましょう。

 ➀クリスチャンの誇り=主の幻や啓示に預かっている。― パウロは主からの特別な幻と啓示に預かりました。第三の天にまで引き上げられ、人間には語ることを許されていないことばを聞いたというのです。そのために彼は大きな働きができたのでしょうが、私達普通のクリスチャンも神様の語りかけを聞いて救われ、導きを頂いて生きているはずです。それはクリスチャン固有の誇りと言えます。

 ➁とげ(=高ぶらないように打つサタンの使い)ゆえの弱さ。― パウロは十分誇れる、すばらしい啓示を受けていました。人は恩寵ゆえに高ぶり易いものですが、パウロでも高ぶらないようにととげが与えられたと言います。それは打つための、サタンの使いだということです。クリスチャンは生涯通じてサタンの誘惑を受け、それと格闘しながら謙遜へと聖められて行くのです。それは自分の弱さをわきまえた謙遜さです。

 ➂キリスのための弱さ。― パウロは、キリストのために弱さ、侮辱、迫害などを喜んでいます。新改訳の「甘んじる」は原語では「喜ぶ、満足する」です。先日私は侮辱が我慢できませんでした。しかし解りました。キリストのために弱さ、侮辱、迫害を喜べた時に初めてキリストの力は完全に現れるのだと。主に届く「弱さ」とは、卑怯や怠惰ではなく、非力を嘆き必死で嘆願する、へりくだった「弱さ」!そこに、力、出現!

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