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<ネゲブの流れ>-894-2026/2/22

  • 2月21日
  • 読了時間: 2分

「本体はキリスト」コロサイ2:16~19


「これらは、次の来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。」

                             ーコロサイ2:17ー


 ソン牧師の賛美の一節「無名でもむなしくはないイエス様我を満たす」は信仰の真髄です。世の全てよりもイエス様が一番で実際その恵みに満たされているからです。私が神学校卒業以来格闘して来た真の信仰とは?という問題。キリスト教会に入り込みやすい似非信仰について、パウロがコロサイ教会に送ったこの手紙から分析的に学ぶことができます。異端まで至らなくても似非信仰の危険は絶えずあります。要注意。

 ➀禁欲的、修行的な似非信仰。-宗教は難局打開のため超人的神仏の要求に応えようとするので、節操や道徳が説かれます。旧約聖書の十戒もその一つ。そのためキリスト教会でも律法より福音といいながら、飲食や遊興で善悪を決め誇ったりさばいたりしがち(禁欲)。また道徳重視で奉仕や献金を修行的に誇る人もいます(修行)。真面目で熱心で節操があるのに高慢さが鼻につくという信仰は危険。似非かも?

 ➁儀式的、神秘的な似非信仰。-パウロが祭りや新月や安息日を挙げますが、これはユダヤ教の名残りでこれに拘っていた者がいたからです。儀式の日とその儀式内容に拘って誇りさばく。またことさらに自己卑下する似非謙遜、人とキリストをつなぐ御使いを強調する御使い礼拝、神秘的な幻体験を誇る軽薄な信仰。これらも危険です。安息日厳守という言葉は祝福を受ける秘訣であって、他者をさばく規範ではありません。「サボりたい時もあるんだよ」との恩師牧師の言葉が印象的。

 ➂信仰の本体はキリスト。-パウロは飲食物や儀式の日の規定を影とし本体はキリストだと言います。そしてこのかしらなるキリストに堅く結びつくことを強調します。節操のなさ、欲の強さ、日の厳守や道徳的修行の限界に気づき十字架のもとにひれ伏す時、信仰の本体なるキリストが近づいて下さり、心が真の謙遜と神と隣人への愛に変えられます。そのような信仰者同士がキリストのからだなる教会を形成しともに成長して行くのです。冷たいさばきの視線はなく清楚な愛の優しさが満ちた集まりそれが教会です。キリストに結びついているか?再点検を!


 
 
 

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