‹ネゲブの流れ>-722-2022/11/13
「いよいよ正しいことを」黙示録22:10~12
「正しい者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」
ー黙示録22:11ー
人生62年、信仰生活43年、ずるく悪く生きようと思ったことはないですが、数々の悔やまれる不善があります。厳格すぎたあるいは親の思いが先行した子育て。正しくても人を刺した厳しい指摘。追い込まれた中での異常行動など。最近はそれらを心に刻みながら、神の前に何が正しいことか?と祈りながら行動するように心がけています。黙示録も終わりに近づいて大事な命令が語られています。心して学びましょう。
➀黙示録の預言を封じてはならない。― 黙示録の預言は、キリストの再臨、キリストと悪魔との戦い、キリストの勝利、悪魔の滅亡、最後の審判、新天新地、聖なる都エルサレムに関するものです。これらを隠し封印してはならない。終わりの時が近づいているのでむしろ語り伝えなさいというのです。二千年経っても再臨はなかったなどと攻撃されるかもしれませんが、私達は信仰持って伝えて行かなければなりません。
➁不正を行なう者と正しい者との分極化。― キリストは罪人を救うために来られたので、教会は不正を行なう者の回心を祈り求めなければなりません。しかし聖書には出エジプト時のパロのように、神によってもはや悔い改めることができないほど頑なにされた悪人が出て来ます。「不正を行なう者は…汚れた者はますます汚れを行ないなさい。」はそれと同様の現象です。終末期は悪人の不正や汚れが極度に達します。その中でも天国を目指す者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒としていよいよ聖なるものとされなければなりません。決して惑わされず。
➂しわざ(=行ない)には報いがある。― 私達がいよいよ正しいことを行ない聖なるものとされなければならないのは、キリストが再臨の際に私達のしわざに応じて報いを携えて来るからです。神を認めない人や神に甘えている人は神のさばきも報いも認めないでしょう。しかし「主は報復の神で、必ず報復されるからだ。」(エレミヤ51:56)とあります。再臨前でも現実に悪人への報いは行われています。報いを否定し火の池行きでは悲しいです。自己の正しさ聖さを追求し、いのちの冠を!
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