<ネゲブの流れ>-833-2024/12/29
「高挙のキリストと教会」エペソ1:20~23
「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」 ーエペソ1:23ー
2024年も終わります。今年私は教会としての働きはほとんどせず、一人礼拝とデボーションと早天祈祷を守りながら恵みを求めました。ゆったりとした黙想の中で過去の出来事や思いを振り返り、今まで気づかなかった主の恵みに気づき感謝しました。ここは私一人でも聖霊が働く教会なのでしょうか?キリストと教会の関係について学びましょう。
➀キリストの復活、昇天、御座への着座。― 先週学んだパウロの祈りの最後は、神の全能の力の偉大さを知れるように、でした。偉大な力の現われの最大のものはキリストの復活です。復活のキリストは受肉したキリストとは全く違います。へりくだりではなく復権、いやそれ以上の栄転で、天に昇り父なる神の右の座に着かれました。この御座は名誉、権威、賞賛の御座です。偉大な力により偉大な方となられたのです。
➁キリストの高挙。- 神はキリストを神の右の座に着かせ、高く置かれました。その高さはすべての支配、権威、権力、主権より上、今の世、後の世でとなえられるすべての名の上、つまり最高の名誉ある高位です。当然いっさいを支配する権能も与えられ、いっさいがキリストの足の下に従わせられました。福音書のイエスとは異なり、黙示録の炎のような目、剣が出ている口、太陽のような顔を持つ威厳あるイエスです。
➂高挙のキリストが教会のかしら。―このいっさいのものの上に立つかしらなるキリストが教会に与えられ、教会はキリストのからだとされました。教会はいっさいのものを満たす方=キリストの満ちているところです。現代の教会では十字架の犠牲の愛が重宝されますが、高挙のキリストが教会のかしらであるという聖なる畏れも必要です。私は家族礼拝が主だったこの小さな教会でかすかな十字架を見て非常に畏れました。畏敬の念をもって毎日真剣に悔い改め、心の病の癒しの恵みにあずかりました。教会に属する者が悔い改めを軽視したり嘘をついたりするなど論外です。甘えの信仰から脱し、高挙のキリストを畏れ崇めて教会生活を。いっさいを支配するキリストから満ち満ちた祝福が注がれる😊

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