<ネゲブの流れ>-835-2025/1/5
「かつての私たち」エペソ2:1~3
「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」
ーエペソ2:3ー
昨年12月22日に石破首相が富士見町教会のクリスマス礼拝に出席しニュースになりました。この教会は明治の佐渡伝道と関係のあった教会です。2025年日本に福音の光が輝くことを願いますが、そのためには私たちの恵みの再確認とさらなる信仰の成長が必要です。まずどのような状態から救われたのか再確認。パウロの分析に学びましょう。
➀罪過と罪との中に死んでいた。― エペソ2章は「恵みのゆえに、信仰によって救われた」(8節)ことが中心です。その大きな恵みに感謝するには、過去の自分を正しく認識する必要があります。かつて私たちは「病んでいた」とか「弱かった」とかではなく「死んでいた」のです。しかも罪過(行動の咎)と罪(心中の罪)との中に死んでいた、つまり義であり命である神から離れていたのです。霊的死=神からの分離だからです。
➁この世の流れとサタンの霊に従っていた。― この世は神から離れた霊的に死んだ世界です。得になる社会通念的規則はあっても絶対正義的規則はなし。キリストを十字架につけた群衆のようです。信仰前の私たちの善は自己中心的で窮地では残酷でした。この世の流れの生き方です。さらにサタン(空中の権威を持つ支配者であり今も不従順な子らの中に働いている)の霊にも従っていました。サタンの霊は罪に誘い罪を犯させます。威張れ、サボれ、怒れ、いじめろ、ごまかせ、奪え…。
➂生まれながら御怒りを受けるべき子。― 義なる方は罪を怒ります。私たちがこの世的罪やサタン的罪を犯したのは環境やサタンのせいではなく、私たちが生来持っている「肉の欲=原罪」のせいです。自分の望みを通したいという原罪が神から離れさせ、自分の益を欲する原罪が罪を犯させたのです。この性質が生まれつきであることは多くの人の自覚です。つまり生まれながらに神の御怒りを受けるべき子というわけです。神なき者が神に立ち帰り、偽善者が罪を認め、真に善き生き方を求め始めました。レベルが低かった過去。しかしまだまだ低いと感じます。サボれ、逃げろとのサタンの声を跳ね除け、輝きたいものです☀

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